6/LIVE レビュー

見に行って、楽しかったLIVEの感想です。

2014/7/21   大泉学園 In-F

出演:深水郁+大滝俊
 (深水郁:こえ,p、大滝俊:p)

 主観/客観時間の揺らぎを堪能できる、絶妙な企画のライブだった。
 演目はストレートなクラシック。だがそこへ、一味を加える。

 大滝俊の生演奏は初めて聴く。クラシックのピアノ演奏をUstで「MEGANE PIANO CLASSIC」にて披露しており、深水郁とも以前から交流あるようだ。事前告知合った演目の一曲が、サティの"古い金貨と古い鎧"(1913)。今回初めて知ったがトリッキーな構成の曲だ。
 3曲のピアノ独奏組曲だが、第三曲の最後が『シャルル10世の戴冠式』と銘打たれ、「267回繰り返し」の指示あり。よって繰り返しフレーズが短くとも、繰り返しにより演目が50分弱かかる大作になっている。Wikiの紹介文はこちら
 267回ってのが、いやらしい。"ヴェクサシオン"と違いなまじ実現可能な所が、いかにも無理やり付き合わされる戴冠式の退屈さを、見事に表現してる気がした。

 なお"古い金貨と古い鎧"は、今日の二人(演奏が大滝でカウントが深水)によるYoutubeでも聴ける。今日のライブ・コンセプトに"連弾"もあり、てっきり深水が弾くか連弾で弾き繋ぐと思ったら。演奏は大滝俊で深水が朗読を挿入する、独自の解釈で演奏された。

<プログラム>
1.ドヴォルザーク:スラブ舞曲 作品72(B147)(第2番/第10番)ホ短調 (1887)
2.ラヴェル;マ・メール・ロワ(1910)
(休憩)
3.サティ:古い金貨と古い鎧(1913)
(アンコール)
4.かりんとうの歌
5.ヴィラ=ロボス:ショーロ 1番(1920)

 冒頭に本日の構成が説明され、20分ほど連弾で二曲が演奏された。どちらも耳馴染みある名曲だ。
 繊細な二人のタッチが、店内へ心地よく響く。ペダルは大滝が受け持ち、柔らかく小刻みに踏む。きらびやかで柔らかいピアノを、じっくり味わえた。二人の演奏は丁寧で、一音一音が細やかに鳴る。ピアノからメゾフォルテが中心のダイナミズムで、だからこそときおり響くフォルテが、ひときわきれいで力強かった。

 "マ・メール・ロワ"では一曲終わるごとに、深水が次の副題を一声告げる。涼やかで良く通る綺麗な声だ。
 幾度も深水が繰り返すグリスも滑らかで心地よい。情感にじみ出るドヴォルザークの楽曲と、構成が複雑に浮かんでは変貌するラヴェル。あっという間に第一部は終わった。

 短い休憩をはさみ、第二部。大滝は「始まったらやめられないからなー」と、気合を入れている。深水はピアノの横のスペースに腰かけた。譜面台と横に低い台。台には数冊の本と、番号が振られた紙が山積みになっている。

 サティの演奏が始まった。最初の2曲と3曲目の中盤まではあっというま。捻くれたメロディを支える和音は、クルクルと表情を変える。時に親しみやすく、時にへんてこに。
 そして『シャルル10世の戴冠式』部分へ。一回、二回、と繰り返すたびに大滝自身が数を数える。さらに横へ置いたi-padのカウンター・アプリで、一度弾くたびに数を数えていた。
 深水は微笑みながら、そのたびに回数が描かれた二つ折りの紙を、譜面台に載せていく。最初の20回くらいは、ただただカウントに徹していた。
 大滝のカウントもいつしか途絶え、深水が本を取った。しおり代わりのポストイットが挟まれたページを丁寧に開き、おもむろに朗読を始める。
 
 うつむき加減の深みの声が響き、すっとピアノの音量が小さくなった。
 ミニマルに繰り返される旋律。深水は読み続ける。詩や純文学に科学解説の新書。特に脈絡なく、読み継いだ。
 不思議なほどに、朗読の意味そのものは頭に残らない。むしろ「どう読むか」「いつ入るか」「次に何を読むか」の、偶発性にワクワクする。深水はラップ風に譜割へ言葉やリズムを絡ませず、あくまで朗読。それが繰り返し旋律による、とろんと停滞した空気の酩酊さを煽る。

 時に読みやめ、深水はそっとポストイットを貼り直す。大滝へ視線を投げると、ピアノのボリュームが上がってカウントが再開。一呼吸おいて、そっと深水は朗読中の番号を飛ばして、最新の番号を譜面台へ載せる。
 感覚的に数十番おき、くらいに朗読が挟まれ、10番くらいが再び深水の無言なカウント。さらに新たなテキストが選ばれ、読まれた。

 深水の通る声は小説だと抑揚をつけ、虹の解説文を読むときは淡々と行く。
 本来は退屈なはずの"267回繰り返し"が、物足りない。気が付けば90回を超え、150回が過ぎ去る。
 客観的な時間は一切変わらない。だが深水の朗読要素が異物かつ好奇心の拠り所となり、主観時間はたちまちすぎていく。

 演奏そのものもシーケンサーでは、伸び縮みする主観時間の醍醐味は味わえまい。
 ひたすら繰り返される演奏は、もちろん危なげない。しかし時たまのスタッカート処理、たまに膨らむペダルの残響や、フレーズそのものをわずかに揺らがす変化が、流れる時間経過をダイナミックに実感させた。
 150回くらいから、心なしか大滝の目は疲れていき、ごきごきと首を動かす。そんなさまも音楽の退屈さに味わいを加えた。

 そもそも大滝は深水の朗読に合わせ、滑らかにボリュームを変える。朗読が終わって深水が本を閉じると、ひときわ力強くピアノが響いた。なんとなくムソルグスキー「展覧会の絵」のプロムナードを連想する。
 ここで演奏される"267回繰り返し"は、フレーズの変化が皆無だけれども。

 深水は4〜5冊を読み継ぐが、ボリューム的にはごくわずか。最後の本では、なぜか幾度も言葉がつっかえる。そのノイズが、ピアノのミニマルで正確なフレーズと対比を出して、ひそかに面白がっていた。

 最後の数十回は朗読をやめ、深水は淡々と数の書かれた紙を譜面台へ載せていく。
 そして267回目。楽曲自身は、なんの盛り上がりも無く終わる。退屈な戴冠式に付き合う苛立ちを、サティはを無造作に終わらせた。
 
拍手。50分弱の苦行なはずが、深水のアプローチにより予想以上に短く終わった感じがした。

 このまま終わる予定だったらしいが、アンコールに応えて二人が1曲づつ。
 深水が自曲の"かりんとうの歌"。なんか中盤のソロ部分を長めに演奏してくれた気も。今日は聴けないかと諦めてた、伸びやかな歌声を楽しめて嬉しい。
 大滝はヴィラ=ロボスの"ショーロ 1番"。ギター曲かと思ってた。ピアノで分厚く演奏されるこの曲は、ますますショーロが整った箱に納められ、磨かれていくようだ。ショーロならではの揺らぎやノリは、クラシカルな美しさに昇華していく。
 大滝の演奏は両足の微妙で小刻みなペダリングが産む、転がりながらもきらびやかな音色が素敵だ。

 プログラムだけ見ると、かなり前衛的。だが二人の柔らかな雰囲気で、穏やかに楽しめた。淡々と同じ旋律が続く50分が、新たな要素が加わり刺激的な一時に変わった。  

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