Merzbow Works

Duo CD 1

Recorded at ZSF Produkt Studio, Tokyo

 1987年9月26日、秋田昌美の自宅で録音。秋田が31歳のとき。自宅録音ゆえの多重録音が楽しめる。Merzbowの活動開始が80年。
 既に膨大なカセットテープ作品群を創る一方で、本作のような分かりやすい明確な非音楽作品を録音してたことに驚きだ。
既にノイズの方法論は明確だったはず。新たな方向性の試行か。
  前半は無秩序ノイズ、中盤からぐいぐいとフリージャズめいた明確さを滲ませてくるのが共通した特徴だ。ノイズ至上主義なら違和感あるのかもしれないが、ぼくは非常に面白く楽しめた。無意識と意識のせめぎ合い、みたいな魅力ある。

<各曲紹介>

1."Duo 1987" (24:10)
 
 エレキベースと、唸るノイズの対話。時に鉄琴風の響きと、弓弾きの低音。めきめきと破壊音やパーカッションの音、こする音も挿入される。そしてギターも。一発取りでは無く、ダビングあり。最初にベースとギターの動きを取り、後からノイズをかぶせたと推測する。

 特に根拠は無いのだが、ベースが水谷聖で、軋み音やエレキギターが秋田昌美ではないか。音楽性を放棄および回避しながらも、楽器演奏ゆえかぎりぎり音楽的な響きをベースが奏で、無秩序なノイズがまとわりつく。
 
 だがここにノイズ追求の緊迫感や、破壊性の芸術を追求する崇高さ、もしくはノイズ表現でのカタルシスや切迫感は、驚くほど無い。ミュージック・コンクレートみたいな非音楽を目指すベクトルよりも、たるっと澱んだ穏やかさが先に立つ。

 そしてそれが、本盤の特異性であり魅力だ。肩の力が抜かれ、轟音や耳ざわりな音を立てる暴力性を廃し、ただノイズをけだるげに楽しむかのよう。
 中盤で若干テンションは上がるものの。30分弱もの無秩序を録音し、さらにノイズをダビングする集中力がさすがだ。

 単なる遊びや道楽ではできない。なぜならば、常にサウンドは慎重に音楽化を避ける。ベースが顕著だ。フレーズをランダムに弾きつつも、無意識にオスティナートや繰り返しのグルーヴが生まれてしまう。
 本盤ではそれに気づいたとたん、外しては異なる世界へ向かおうとする意志を感じる。

 一方の秋田(とする)のノイズは奔放だ。次々に打音が降り注ぎ、エレキギターっぽいフレーズがダビングされるものの、見事に意味がない音を連ねてる。ここでは轟音カタルシスは全く志向せず、無意味性を追求した。ジャパノイズとハーシュのつんざきが同義になったのちの文脈から見ると、本盤でのダダイズム寄りの方法論は新鮮だ。

 音楽に飽き足らず、ノイズで音楽を追求する。困難を本盤はあっさり提示した。

 もっとも13分前後では、ギターが何となくフレーズ風の音程を奏で、ベースがランニング。むちゃくちゃに鳴らされる鉄琴が高音を占めて、歪むノイズが彩り。
 なんとなく、ハードなフリージャズ風の音像ができてしまってる。

 だからこそ、冒頭部分の無意味性が醸し出す無秩序が素晴らしい。
 逆に、この後半部分のインプロを楽しめる耳も、確かにある。
 これら二面性を考えさせる意味で、本盤は凄い。 

 終盤は歪みまくった打音がグッと前に出て、ベースとエレキギターが混沌な演奏を繰り返す。ある種、非常に音楽的な動きだ。高まったところでちらちらと鉄琴が鳴らされ、終わる。

2."26 September 1987" (23:52)

 琴みたいな緩みある弦をはじく音と、パーカッションの対話。鳥の声みたいな響きは何のノイズマシンだろう。後に動物愛護に傾倒する秋田の嗜好を意識しながら聴きかえすと、奇妙な一貫性を本曲に感じて面白い。

 エレキギターが複数本存在し、てんでに音を鳴らす。これもダビングを重ねた構造か。軸で鳴る音は不明だが推測するに、ギターとパーカッションのセッションを元に、ギターやノイズをダビングだろうか。
 パーカッションは乱打に近く、特段のパターン性やリズムは聴き取れない。けれども大きくうねった。

 響かぬ弦をはじく音の連発は、なんだか三味線みたいな和風風味も聴きとってしまう。サウンドは無秩序なノイズの集合体なのに。奥にディストーション効いたエレキギターらしき音も聴こえるが、不思議とそれぞれの音は輪郭がくっきりしてる。エフェクターで潰してない。
 
 ミュージック・コンクレート寄りのアプローチを試した音源と言うことか。展開は唐突でむちゃむちゃだが、本盤の演奏はあくまでもフリージャズの文脈に張り付けられる音像だ。

 弦楽器が水谷、パーカッションが秋田と思う。秋田が単独で製作してない分、対話性やうねりが自然と生まれてる。パーカッションが無秩序で鳴りつつも、どこかポリリズミックな展開を読む。
 やはりそれは弦楽器が、わずかに音楽性を残すためだ。右チャンネルで中盤に掻き毟る弦楽器の響きも、おそらく水谷の演奏だろう。けれども背後でギターを爪弾く音楽と、完全に無関係で非連続な音になり切れていない。

 やはりこの曲も10分前後から、豪快なフリージャズ路線に向かう。エレキギターが派手な和音の跳躍を提示し、パーカッションがひっかくように打音を提示した。
 ギターは明確に4拍子を提示する場面すらある。たしかにこれはメルツバウの路線では異様だ。分かりやすすぎる。だから当時はオクラになったか。
 今聴くとすごく音楽的で、面白いのだが。

 17分ごろからの、うねり持った加速する流れもかっこいい。エレキギターが複数本混ざりつつも、やはりエフェクターで潰されない分、見通し良い混沌っぷりにしびれる。パーカッションが混乱に彩りをグイグイ添えた。
 絶叫するかの緊迫感も、声でなく物から絞り出す。このへんの加速も、肉体性を排除するアプローチが透けて見えて面白い。他の日本のノイジシャンと異なり、メルツバウは自らのシャウトを注意深く排除している。 
  (2015/11:記)

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